マノン・レスコー5 公用語としてのイタリア語の成立
オペラのテキストを理解し、表現力を高めるためにはイタリア語の文体が持つニュアンスを的確に捉える必要があります。
イタリア語が今のようにイタリアという国の公用語として定着していったのはそれほど昔ではなく、実に1870年頃の事です。
その頃に何が起こったか、見てみましょう。
1827年 マンゾーニによって歴史小説「婚約者」(I promessi sposi)が書かれる。
この作品がイタリア語の成立の基本的な第一歩と言われている。
1840年 マンゾーニが「婚約者」を、より現代のイタリア語に近い文体に改訂する。
1861年 イタリア統一。この後、国家が主導し現代イタリア語を普及させていく。
日本でも、明治維新(1868年)以降に政府が主導して、いわゆる標準語を導入していったという流れに良く似ています。
ちなみに、イタリアでは小学校でこの作品「婚約者」を基礎教材として取り上げているそうです。
(婚約者)
それにしても、なぜマンゾーニはこの小説を改訂したのでしょうか?
最初の版は彼の生まれ故郷であったミラノ言葉の影響が強かったので、当時、(より美しいと考えられていた)フィレンツェの言葉に改訂したのです。
ではなぜ、フィレンツェ言葉が最も美しいと見なされていたのか?
それこそが正に今のイタリア語の魅力であり、存在意義であると言えます。
古代ローマ帝国の時代からラテン語が話されていたこの国に、現代イタリア語の礎を築いたのは、トスカーナ地方で活躍した3人の詩人、ダンテ、ボッカッチョ、ペトラルカでした。
1321年〜 ダンテによる『神曲』がイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれる。
1349年〜 ボッカッチョにより『デカメロン』が執筆される。
1470年〜 ペトラルカの『カンツォニエーレ』が出版される。
余談ですが、私がイタリア語を学んだ語学学校の名前は「ダンテ・アリギエーリ」でした。
※ ベルリンやミュンヘンで通ったドイツ語の学校は「ゲーテ」
ダンテ「神曲」
そして、1514年にはマキャヴェッリが名著「君主論」をフィレンツェ言葉で執筆し、徐々に(14世紀に)フィレンツェで使われていた言葉が現代イタリア語となっていきました。
マノン・レスコーの冒頭で、エドモントが "気取って、キザに(leziosamente)" 歌う部分はとても詩的な文体で、少し時代がかっているので、ト書きにあるように、周囲の学生たちからは"コミカルに"聞こえるのです。
このオペラが書かれたのは1893年ですから、当時の聴衆にもこの部分がどの様に聞こえたか、これで想像がつきますね。
エドモント役は、14世紀の詩人になりきって、格調高く、気取って、キザに歌う事が求められます。
それを聞いてイタリア人の聴衆が微笑んだら、、大成功です。
それにしても、プッチーニのセンスは素晴らしいですね。
オープニングで "詩人" を登場させ、聴衆を大いに惹きつけることに成功したのです。(ラ・ボエームでも、冒頭でいきなり聖書の物語が引用されています)